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中高6年間、通いなれた学び舎もこれで終わり。私立であるこの学校では体育館ではなく少し豪華なホールで卒業式が執り行われる。学年ごと名前順に座らされる。ホールのふかふかの椅子。通路の1つ奥の席。通路側の隣に荷物だけが置いてあった。クラス関係なしで名前順に座るのなんて入学式以来だから、誰が隣なのかわからないが、とりあえず自分も荷物を置いて、化粧室に前髪をなおしにいくことにした。
戻ると、隣の席が返ってきていた。目を隠すさらさらの黒髪、不健康さすら感じる透き通った青白い肌、すらりと伸びた手足。入学した時に美少女が隣に座ってると思ったことを思い出した。名前は何だったか。きれいな名字だったことだけ覚えているのだけど。通るね、と言って前を通らせてもらう。かつて美少女と見間違えるほどだった彼も、男になったのだと思う低い声だった。 座ると隣の彼がすこし視線をやるが、気づかないふりをする。こういう顔のいい男とは話さないに限る。私みたいな普通の女が話しかけても、めんどくさいことにしかならないことを、中高でしっかり学んだ。
椅子に置かれていた式次第を眺める。綺麗な指が目に入る。細長くて綺麗な指先だ。やはり青白くて少し不健康な印象がする。やがて式が始まり、卒業証書を受け取ったりして終わる。さて、帰ろうか、立ち上がりかけたところで、服を掴まれた。隣のイケメンだ。卒業証書の呼び出しでの名字を思い出した。彼の名字は、『まなづる』。きれいな名字だ。
「あのさ。良かったら、春休みに遊んでくれないかな」 「え?」 「気が向いたらでいいから」
そう言って私の手に小さな紙片を握らせた。
「なんで」
そう聞く前に、彼はさっさと帰っていった。他の子たちが仲良く友人たちと談笑する中をそそくさと進んでいく。何人かの女の子が彼に声をかけようとするのが見えたが、彼は気にせず、ホールの後ろの扉から出て行った。
自分も友人たちと話し、絶対また遊ぼうね!と誓いあった後に、帰宅した。 紙片にはメールアドレスが書かれていた。mnzr19990412というシンプルなメールアドレス。6年間同じクラスになったこともない、他で話した記憶もない、どうしてそんな相手にメールアドレスを渡したのか、皆目見当がつかなかった。しかも春休みに遊んでくれないか、とはどういうことなのか。彼について知ってるのは、彼の名前が『まなづるこうたろう』であることと、彼がイケメンであることと、このメールアドレスだけだ。どうしてこんなことをしたのか、他の手段で聞くことはできない。気になる。メールを送ることにした。
『卒業式でメアドを渡してもらった水無月です。確認だけど、渡す相手を間違えたとかじゃないんだよね?』
どう書くか悩んだか、まずは渡す相手を間違えてないか確認しよう!と思った。もしかしたら隣の席が別の人だと勘違いしたのかもしれない。もしそうだった場合は、私ができる範囲で正しい相手にメールアドレスが渡るようにしよう。SNSを眺めていると、返信がきた。
『間違えてないよ。突然で驚かせたよね、ごめん。よかったらどこかで話せると嬉しいんだけど、空いてる日あるかな』
どういうことだ。接点のないイケメンが私と話したいって?友人に告白とかだろうか。そんなのを卒業した後に頼むだろうか。でも在学中だと彼を狙うカースト上位女子グループに何をされるかわからないから、卒業してから、ということなのだろうか。会った時に聞くことにしよう。そう考えるとできるだけ早い方がもやもやしないので助かる。
『春休み、全然予定ないからわりといつでもいけるよ。明日でもいいし』
そう返事をすると、すぐに返事が戻ってきた。
『明日の14時とかでもいい?』 『オッケー どこ集合?』 『水無月さんの家から遠かったら別のところでもいいんだけど、こことかどう?』
カフェのリンクが送られてきた。家から15分ほどの個人経営のカフェだ。オシャレなところに誘うなあ、と思いながらいいよ、と返事を返す。ありがとう!待ってるねと返事が来たので、返事を返さず、携帯を閉じた。
昼頃。どういう服を着て行けばいいのか悩む。あんまり気合の入った格好でもどうかと思うし、かといって普段友人と会うような恰好でいいのだろうか。色々考えた結果、黒のチノパンに薄手の白セーターという服装で行くことにした。待ち合わせの5分ほど前につくように歩いていると、ちょうど真鶴と店の前で遭遇した。制服姿でも充分イケメンなのだが、薄いグレーのスラックスに青みを帯びた濃いグレーのシャツという出で立ちは、更にイケメンなように見えて、私なんかが隣に並んでもいいのか……?と思わせた。
「ちょうどよかった。とりあえず入ろうか」
真鶴はそっとドアを開けて、カウンターの人物に2人だと指で示す。カウンターの人物はおや、今日は人が一緒なのかい、と言って、奥空いてるよと返した。
「よく来るの?」 「うん。ここの……」
真鶴が言い淀む。どうしたんだろう、と目をやる。彼は私と一瞬目を合わせた後、不安げな顔をした。
「どうしたの」
そう問いかけると、彼はメニューを手に取り、こちらに向けて、開いた。
「好きなんだ、ホットケーキとか、プリンとか」
そのページにあるのは、おすすめメニュー。懐かしい感じのバターが乗ったホットケーキと、レトロな感じのホイップとチェリーの乗ったプリンの写真が載っていた。
「いいね、私もプリンにしようかな」
素直にそう返すと、彼はほっとした顔をした。
「やっぱり、水無月さんはそういうのを気にしないんだね」
そういうの?と首を傾げる。
「うーん。なんていうのかな。コーヒーは無糖が好きだからさ、缶コーヒーばっか飲んでたんだ。そしたら、いつの間にか苦いものが好きみたいなイメージがついてたみたいで。知らない間に、知らない人に、知らない属性を、付与されてたんだよね」
不健康そうな青白い指がページをめくる。
「おれのことを好きだと言ってくれる子ほど、そういうのを否定すると、イメージと違う、みたいな顔されるんだ。それが、しんどくて。でも、そういうの、男に言うと、好かれてるんだからいいだろみたいに言われてしまうんだよね」
次のページはコーヒーメニューだった。色んなブレンドが載せられている。数からして、コーヒーにも力をいれてるんだろうってことがわかる。
「コーヒーって飲む?」 「あんまり。苦いし」 「後でミルク追加もできるからさ、プリンを頼むなら、良かったらこのへんとか飲んでみてほしいな」
すっきりマイルドブレンドと書かれているものを指差す。まあ、ミルク追加できるならいいか、と思ってじゃあそれにする、と答える。彼は嬉しそうに笑って、オーダーをする。私の分はプリンとすっきりマイルドブレンド。彼の分はホットケーキとしっかり深煎りブレンド。
「で、どうしたの?」
オーダーの後に、聞いてみる。真鶴は困った顔をして、なんていえばいいのかな、と呟く。しばらく沈黙が続き、少し深い呼吸が聞こえた後に、真鶴は低い声で語りだす。
「水無月は、おれに興味なさそうだったから。水無月となら、話せるんじゃないかって思ったんだ」
遠くでコーヒー豆を粉にする音が聞こえる。
「さっきも少し話したけど、なんかおれに勝手なイメージ作られちゃってるの嫌でさ。だから、すこし遠くの大学に行くんだ。親の勧めもあったから」
水無月はすこし遠くの、すこし頭の良い大学の、すこし珍しい学部に行くらしい。うちの中高では珍しい進学先なので、話題になっていた。
「そしたらなんか、寂しくなっちゃって。誰か、中高から、大学のおれを、知っててくれるような人が、欲しくて」 「わたし、中高の真鶴のことなんか全然知らないけど」 「いいんだ。なんかこうさ……中高の時、こういう行事あったよね、みたいなのをさ、語れる相手が、欲しかったんだよ」 「たくさん居るんじゃないの」 「みんな、おれの……」
真鶴は言い淀んだ。悲しそうな顔をした。すっとマスターが現れる。
「コーヒー、置かせていただきますね」
マグカップじゃない、ちゃんとしたソーサーつきのカップに淹れられたコーヒー。
「プリンもすぐお持ちしますね。ホットケーキは、もう少しお待ちを」
そう言って一旦戻っていき、プリンが運ばれてくる。足の長い、鉄の器に、ぷるんと盛られたプリン。ホイップクリームと、さくらんぼ。鉄色、赤色、黄色、白、茶色と色どり豊かだ。写真と同じだけれど、立体で見ると、なんだかウキウキしてしまう。 プリンの立体感を楽しみたくて、左右から見ていると、真鶴がくす、と笑った。
「良いでしょ、そのプリン」 「うん!こういうの食べるの、初めてかも」 「見た目も違うけど、味も一味違うから、食べてみてよ」
スプーンを手に取り、ていねいにひとすくい。少し弾力がある。すくうと、ぷるるっ、と揺れる。口にいれる。すくう時は弾力があったけど、口にいれるととろけるようになめらかだ。スーパーのとは全然違う、ほのかな甘み。すこしこてっとしたたまご感と、遠くになめらかなミルク感。あまくてほろにがいカラメルが、プリン本体を際立たせる。
「すごい、真鶴はこういうのを食べてるんだね」 「しょっちゅう食べてるわけではないけど……」 「で、なんだっけ、なんか自分のイメージがついちゃってこういうの好きなのが言えなくてつらいって話だっけ?」 「ああ、うん、そうだね」 「うーん。なんか、真鶴がみんなに言いたいって思ってるならもったいないけどさ。でもこれ、隠しておきたかったりも、しない?」
真鶴は少しの沈黙の後、たしかに、と呟いた。
「わたしは中高で真鶴がどうやってきたのか知らないけどさ、真鶴がそういうこと言いづらいって思ってる相手って『理想の真鶴クン』を見てるだけで真鶴を見てないってわかってるから、真鶴も言いづらいと思ってるんじゃないの」
というのは漫画かなんかで読んだ受け売りだ。真鶴みたいなイケメンキャラがそういうことを言われていて、イケメンも大変だなあみたいなことが記憶に残っていたので、なんとなく真鶴に重なったのだ。 真鶴のきれいな指でコーヒーカップの取手に絡む。薄い唇がコーヒーカップに淵に触れる。コーヒーを嚥下する時に、青白いくて細い首ののどぼとけが上から下と動くのがはっきりと見える。ゆっくりと、しずかに、カップがソーサーの上に戻る。
「そうかもね。そうかも」
ひとりごとのように、真鶴が言った。真鶴の真似をして、コーヒーを一口飲んでみた。彼みたいに綺麗な所作には、なれないが。にがいのかな、と思って飲んだコーヒーは、思ったほどの苦味ではなかった。苦くはある。苦味よりも香りの方を強く感じた。なんだか落ち着く香りだ。
「これ、おいしいね」 「そうでしょ。おれも最初は、ミルクシェーキばっか頼んでたんだけど、マスターにおすすめされて最初に飲んだブラックコーヒーが、それなんだ」
真鶴は優しい顔で語る。
「真鶴は……真鶴のままで話ができる誰かが欲しかったってことでいいの?」 「うん、そう。全然、気が向いたらで、いいからさ」 「でも遠くに行っちゃうから……メル友ってこと?」 「そうなるかな」 「いいよ、別に。その代わり、真鶴の学校の話も聞かせてほしいな。面白そうだし」
私が進学するのは、なんてことのない、経営学部だ。経営がしたくて行く人ももちろんいるだろうが、私は特に何もやりたいことがないので経営学部を選んだ。真鶴が行くのは、国際学部。閉鎖的ってわけでもないが、外交的ってわけでもないこの街では中々選ぶ人がいない、すこし遠くの、すこし頭のいい大学の、国際学部。聞いたときに『楽しそうだなあ』と思うことはあっても、自分で選ぶことはない、選択肢。
「そんなのでいいなら、いくらでも」 「でも私から話せることあんまないと思うよ。いいの?」 「いいよ。5回に1回くらい返信してくれれば」 「宿題に追われてなければね」
笑いながら言う。他愛もない話をしている間に真鶴のホットケーキもきた。一切れ切り分けてくれた。家では食べたことのない味なのに、なんだか懐かしい味がした。
真鶴は、長期休暇は海外の友人に家に居ることが多い。時々名前しか知らない国の、名前すら知らない街の写メを送ってきてくれる。テレビで真鶴が行った国を見るたびに、真鶴が行った街かどうか気にしながら見るのだが、あんまり出てこない。真鶴が乗換で使った空港とかは、たまにニュースで見る。長期休暇の合間を縫って、真鶴は3日くらいだけこっちに顔を出す。そして、あの日の喫茶店で2時間くらい会話して、また次の休暇ね、と言って、メル友に戻る。
やがて真鶴はブログをやるようになった。時々デジカメで撮影した景色が投稿される。私には、彼の友人が撮影したのであろう彼の写真が送られてくる。相変わらず白い肌をしているが、あの頃よりも血色がよくなったように見えるし、自然な笑顔も増えた。あの後、卒業アルバムで真鶴を探したら、いつも困ったような笑顔だった。スマホになって、チャットアプリが主流になっても、真鶴はメールだった。キャリアメールからフリーメールに移動はしたが。海外だとチャットアプリが使えないことがあるんだよと言っていた。
大学3年生の夏の長期休暇。いつも喫茶店にて
「真鶴は就職どうするの?日本でするの?」 「うーん。どうしようかなあ。まだ、何も決めてない」
意外だった。なんだかんだ言って、真鶴は『優等生』のイメージがあったので、何なら決まっている、という返事すらあり得ると思っていたのだ。
「水無月は?」 「私は普通に、このへんか、東京で就職先探すよ」 「何をするの?」 「なんだろ。事務かな」
真鶴はアイスコーヒーのストローを口にしたまま、沈黙する。真鶴の沈黙の意味するところがつかめず、こちらも黙る。真鶴が何か言いたそうなのはわかる。真鶴が言いづらそうにしているのもわかる。真鶴が何を言いたいのかは、私にはわからなかった。
「水無月は、なんかやってみたいこととか、ないの」 「うん?やってみたいことかあ。思いつかないかも」 「そっか」 「真鶴は?」 「そうだね……もうちょっと、世界を見てみたいかな」
せかい。ああ、真鶴は遠くに居るんだなあ、と思った。真鶴とする他愛もない会話はずっと楽しかったが、遠い国にいる真鶴はなんだか……かつての同級生というより、昔の顔しか知らない従兄弟みたいな感じだった。所在を伝え聞くだけの昔の顔しか知らない従兄弟。
「卒業旅行にさ、海外、行かない?」 「真鶴と?」 「うん。ヨーロッパはちょっと遠いから……シンガポールとかどうかな。案内できるよ」 「海外かあ。真鶴アテンドならいいかも」
真鶴は男で私は女だ。そんなことは考えずにずっと生きているが、真鶴のことは友人だと思っているが、海外旅行まで誘われるとなると、さすがに考えてしまう。真鶴としてはそんな気は全くないだろうと思う、思いたい、そして私にも、真鶴にそんな気は、やっぱりないのだ。真鶴はどんなに顔が良くても、私にとっては……私にとって真鶴は何なのだろう。真鶴にとって、私は何なのだろう。
そんなことを考えつつ、パスポートを取得した。パスポートを受け取って、真鶴にメールをした。いつ行く?と返事がきたので、空いてる日を返した。
行きの飛行機は真鶴と一緒に行って、色んなものを見た。大きな観覧車、植物園、日本では見たことのない機械、少し移動しただけで建物の雰囲気も人種もがらっと変わる街。帰りの飛行機はひとりだった。真鶴は、ここから世界一周に行くのだと言う。YouTubeチャンネルのURLを渡された。最初はしゃべるのがへたっぴだった真鶴も、だんだん話すのも編集も上手になっていった。登録者数も気づくとどんどん増えていた。それでも真鶴は、私にだけ、ブログにもYouTubeにも載せていない自撮りを送り続けてくれた。この街ご飯が合わなくてしんどいわみたいな話も、ずっと腹壊しててマジつらいwという話も、スーパーで味噌汁見つけたから買っちゃった!!そろそろ和食が恋しいな、という話も、メールにだけは書いてあった。
ある日真鶴からそろそろ日本帰る!というメールがきた。なんだかすごい職業に就職するそうだ。事務員として日々を消費するだけの私には真鶴が眩しくて、おめでとう、とだけ返した。
なんだかんだ、昔は2回に1回は返していた。今はもう、7回に1回くらいになっていた。真鶴も毎回、仕事忙しかったら返信しなくて大丈夫だからね!と書いてくれた。真鶴はずっと、大丈夫だからね、と予防線を張る。彼のためか、私のためかは、知らない。私は真鶴のことを何も知らないままだ。
結婚するんだ。とメールが来た。返さなかった。それを最後に、真鶴からメールは来なくなった。真鶴のYouTubeチャンネルは日本に戻る時に終了を宣言していた。ブログは日本で就職するのでしばらく更新頻度が減ります!という投稿のあと、釜山旅行の写真を上げたきり、更新されていない。私は相変わらず、事務員として人生を消費している。彼がなんだか、すごい仕事をしている間に。
かなり経って、離婚するんだ。仕事も辞める。とメールがきた。どうしたの、と返事をすると、今地元にいるから、夜でいいから、いつもの喫茶店で会えないか、というメールがきた。
久しぶりに会う真鶴は相変わらず顔が良かった。少しくたびれた感じもあったが、それすらも色気だと感じるようなかっこの良さだった。高そうなジャケットに、靴に、時計に……反して私はスーパーの2階で売ってるYシャツに、庶民に優しい価格のお店のスラックス。真鶴に並んでいいのか、悩んだが、喫茶店の前で出会った真鶴は変わらない笑顔で「ちょうどよかった。とりあえず入ろうか」と言ってくれた。小さな声で、うん、と返した。
「人間をやるのってさ、結構難しいよね」
学生の頃よりも、低く、深い声。すらりと白く細かった指も、相変わらず白くはあるが、皺が刻まれていた。日本に帰ると言った頃には標準的なサラリーマンと同じような短髪だったが、今は前髪も含めて伸ばしているようで、後ろでひとつに括っていた。
「水無月も知ってると思うけど、父さんは、ちゃんとした職業なんだ」
真鶴の父はいわゆる官公庁に務める『ちゃんとした職業』の人だ。このへんではよく知られている。
「だから、そういうの、やるべきだって、自分だってできるはずだって、思ったんだけど」
真鶴の声が震えていた。真鶴は1回ぐっと下を向いてから、何を頼もうか、とメニューを取り出す。前と同じの、と小さな声で言う。真鶴はん、と言ってマスターを呼ぶ。プリンと、あっさりマイルドブレンドと、ホットケーキと、しっかり深煎りブレンド。
それから真鶴は、メールを送ってこなかった日々のことをぽつぽつと話した。頑張っていたのだということ、無理をしていたこと、それで心を壊したこと、直そうと努力したこと、結婚すらも彼にとっては『普通』を演じるために必要な要素でそれすらも彼の負担になっていたことを、あの頃よりもザラっとした声で、打ち明けた。コーヒーがなくなり、彼がミルクシェーキを頼み、私も同じものを頼んだ。
「おれのことばかり話しちゃったね。水無月は、どうだったの」
首を振った。何も話せることはないことを打ち明けた。ただただ、ただただ事務員をしていたのだ。私は人生を消費していただけなのだ。
「そうか。がんばったね」 「真鶴に比べれば、全然」 「比べるものでもないし、水無月を見れば、頑張ってきたことは、わかるよ」
泣き出しそうだった。ただの事務員。言われたことを頑張ってこなして、言われてないことをやってないと言われ、言われないように頑張っても報われない、そんな日々だった。日々がただただずっとグレーで、未来もずっとグレーだとしか思えない、そんな日々だった。
「ねえ水無月」
名前を呼ばれて、目を向ける。真鶴と目が合う。あまり見たことがない、真剣な表情をしていた。しばらく見つめ合った後、真鶴から視線を外した。
「返事をくれなかったのは……返事をくれたのは、どうしてだったの」
主語がなくても、何を問いたいのかはわかる。結婚した時に返事をくれなくて、離婚した時は返事をくれたのは。そこに何の感情があるのか、ないのか。言葉を探す。上手くまとまらないまま、呟いた。
「真鶴が、眩しかったから」 「まぶしかった?」 「私は地元で、ただの事務員で、独身だったから。真鶴はちゃんとライフステージを進めていて、立派な人に見えたの」
沈黙。真鶴は、困った顔で、そっか、と呟いた。
「立派なものでも、なかったけどね」 「結婚ができるという時点で立派なことに見えるのよ、私には」 「そっか。それで、今回は、なんで返信をしてくれたの」 「久しぶりに連絡してきた友達が、辛そうな内容を送ってきたら、どうしたのくらい、言うでしょう」 「水無月はまだ、おれのことを、友達だと、言ってくれるんだね」 「それ以外何があるの」
そう問うと、真鶴は皺の増えた端正な顔で笑った。中高を卒業したての頃はすこし陰のあるところが魅力の男だったが、今は少し疲れた雰囲気が魅力となっていて、また違う魅力のある男になっていた。
「ねえ水無月。こんな街捨てて、おれとどっか行かない?」
卒業旅行にさ、海外、行かない?と聞いた時よりもずっとずっと軽い雰囲気で、まるで近所に小旅行でも行こうよと誘うように、真鶴は言った。沈黙。真鶴は優しい笑顔を保ったまま、私を見ている。私はどんな顔をしているだろうか。色んな感情が渦巻いていた。頷いてしまいたい気持ちはあった。こんな生活を捨ててどこかに逃げ出したい気持ちは確かにあった。真鶴にはわかっているのだろう。多分私が頷いたら、真鶴は私を連れてどこかに行ってくれる。でも私も気づいている。真鶴には、それじゃないのだ。私を連れて行っても、真鶴は幸せになれない。真鶴が幸せになれないなら、私も幸せではない。
「真鶴は、選びたい選択肢が、あるのでしょう?」
そう問いかけると、真鶴は真顔になる。見つめ合う。皆までは言いたくなかった。彼の名言しないことを晒すようなことをしたくなかった。彼の口から言われるまでは、言いたくなかった。真鶴はため息をついて、背もたれに深く沈みこんだ。
「水無月のことを連れ出したいのも、本当なんだけどなあ」 「ありがたいけど、それで真鶴が幸せになれなかったら私もしんどいことは、真鶴だって、わかっているでしょう?」 「結構楽しいと思うけどね、真鶴と水無月のささやかな生活」 「楽しいとは思うけれど……真鶴はこれ以上、世間のために真鶴を犠牲にすべきじゃないと思う」
真鶴はすこし考えて、困ったように笑った。
「水無月はその言葉を水無月にもかけてあげなよ」
それも、そうだ。
それから更に時は流れて。 機内でシートベルトを装着して、自撮りをして、もうすぐ行くよとメールを送る。
事務員をやめて、ずっと気になっていた農家に入門した。女1人でやっていけるだろうかと不安だったが、条件の一致もあって一緒に農家に入門していた男性と結婚し|た。農家入門も終わり、独立して、少し安定した頃。冬はやることがないとは言わないが、少し時間ができる。夫に『昔の友人が遠くの国に居て、しばらく会ってないのだけど、会いに行きたい』という話をしたら、快諾してくれた。2週間もらって、今は遠くの国に住む、真鶴に会いに行く。
真鶴も今、遠くの国で、パートナーの男性と農園を営んでいるらしい。真鶴と久しぶりに会ったすこし後に、同性のパートナーができた、というメールを送ってくれた。真鶴もそこそこ背が高いのだが、それよりも身長が高くてがっしりとした、異国の男性だった。しばらくして真鶴は彼の国に行くのだ、と言った。彼が出国する前にあの喫茶店で会ったら、ずいぶんと雰囲気が変わっていた。マスターの息子が継いだようだ。ホットケーキはイマドキのふわふわのパンケーキに、プリンはプリンアラモードになっていた。コーヒーは『ブレンドコーヒー』としか書かれていなかった。
時代も変わっていくものだね、と笑いながら別れを言った。それからもメールは続いた。YouTubeは別のチャンネルで再開したようだが、顔だししていたので過去に世界中を旅していた真鶴だと気づいた人もいたようだ。
ぽーん、ぽーん、ぽーん、ぽーん、と音が鳴る。飛行機に乗るのは、真鶴とシンガポールに行ったあの時ぶりだ。パスポートはとっくに有効期限がきれていたので、とりなおした。真鶴の国までは、10時間ほどかかるらしい。寝て過ごすにも長すぎる時間のお供に、タブレットにたくさん本をダウンロードしておいた。農業はまだまだ知らないといけないことが多い。学ぶのは楽しい。グレーだった日々は、今は鮮やかなイエローに見える。